時と場合によること
- Shiori SHIMOMURA
- 2018年5月17日
- 読了時間: 3分
私には良いのか悪いのか分かりませんが、ある癖があります。
多分、良いか悪いかは、「時による、場合による」って答えでしか判断できないことです。
それは人が着ている服に興味を持つと、どんな風に作っているのかを頭の中で想像することで、
一度、気になってしまうと、ちょっとした時間が通り過ぎています。
立体となっている衣服を見ながら、どのように平面で構成されているかとか、
そんな衣服の柄位置を実現させるために、どんな生地にどうやって型紙を置いて裁断しているかとか、
その服が出来上がるまでのプロセスの中で、どんな手順や縫い方をしているかとか、
そういうことが、私にはとっても楽しくて、気をつけていないとエンドレスにはまっています。
ただ、そういう時って、本人は真面目な顔で、真剣に考えているので(でも内心楽しい)
周りから見ると「つまらなそうな人=廃人(爆)」みたいに見える時もあるんだろうと、
そしてそんな私が「察してほしい」とか「気を遣ってほしい」とか思ってないのに、
そんな風に見られることがあるのかと分かったことが、つい最近ありました。
こういうことが私は「仕事のスイッチを切ることができない」人になるのかというと、
その分類も当てはめ方も、私にとってはちょっと違うことなのです。
なぜなら、こうやって企業に勤めながらも、それとは別に服を作って提供することは、
私にとっては「仕事」でも「趣味」でも、どちらでもない感じなのです。
そう思うと、これは「仕事」、これは「遊び」というふうに、
完全にスイッチを切り替えて生きていることって、稀なことで、
仕事をしながらも、遊びに行きながらも、いつも何か別のことがいつも絡まっていて、
そういうことが、自分のエッジを作っているって思います。
タンゴを踊るときはもちろん、相手のことを、その周りのことを見ている。
それに、自分の皮膚に相手の衣服に触れて生じる衣服の衣擦れから、
「次はここを直してこうやって作ってみよう」なんてこともひらめくときもあったりもする。
そうやってひらめくことも、しばらく経つと忘れることもある。
今回、結論として思ったことは、
そんな癖をやめてみることも、時と場合に関係なくあってもいいのかもと。
そして、たまには自分がいいと思うことと真逆をやってもいいのかもと。
何が変わるか、もしくは何も変わらないかもしれないけれど
そんな意識も持ってみようと思うきっかけになりました。
今までの習慣や行動が、いいとか悪いとかではなく、
ちょっと違うこともオプションに入れておこうと、そんな気持ちです。
その時とその場合に対してすることは、自分で決めることだからこそ、
それを自分の中で変えてみようと思えたのは、チャンスかなと思っています。

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