最大のたからもの
- Shiori SHIMOMURA
- 2018年2月21日
- 読了時間: 6分
今月初めに、私の手を「必要としてくれた」人が天に旅立ちました。
その人は職業を持ちつつ、踊って歌えるバンドネオン弾きとして、
音楽とダンスをこよなく愛してきた人でした。
旅立った人は、2012年3月にALS(筋委縮性側索硬化症)と診断されたことで、
呼吸が浅くなり、筋肉が衰え動かなくなっていくからだに残されている、
そのみる力、きく力、かんがえる力で、
きちんと人をみて信頼し関わり、静かに積極的に生きてきた人です。
人をみて信頼するということは、
人の長所と短所の両方をよく見て、理解していることが絶対です。
できないこと、苦手なことを頼んでもあまり芳しくなく、むしろ無駄で、
確実に成功する状況や失敗しやすい条件も、場合によって変化するときもあると思います。
また、時間と共に変わらない人も存在しないから、
その人が突然進化することもあれば、怠って思いがけない後退をする時もあるはずです。
ポテンシャルとしてある、そのひとのいいところとわるいところ。強みと弱み。
そういうことが分かる人ほど、自分の為に、他人の為に、
もしくは集団の為に「適材適所」の采配をできるのではないかなと思います。
私の手を「必要としてくれた」その人は、
そういうことを屈託なく、自在にしていたように思えます。
その人が「必要としている」「欲している」それぞれのことをかなえる為に、
いつも一番上手にできる人、一番条件がいい人、一番愉しんで取り組める人...
それが誰であるのか、ちゃんと分かってお願いする人でした。
からだを自分の意志で動かせないという弱さの分、
思い通りにいかないゆえの何かもあったと思うけれど、
その人と、対峙する人の間でのお願いのやり取りや、
それにまつわる全ての行為が自然、必然であるかのように。
今では、それが確信めいた事実として、私の中に残っています。
***
私はこのウェブサイトのプロフィールの文章の中で、
「世の中を探してもなかなかないけれど、その人の体に必要なもの」を
作って提供していると記載をしています。
ウェアの製作販売を始める前、
2013年の早春に突然、その方からメッセージをいただきました。
「ひとつお仕事を頼まれてほしいので、
一度メジャーと帳面を持ってうちに来てほしいのですにゃ。」
まるで、大きな猫がすりっと寄ってきて話しかけてきているようでした。
でも何を頼まれてほしいのだろう、何を測るんだろう、なんで私?ととまどいながらも、
「頼まれますので、いつお伺いすればよいのか、ご都合よろしい時をご提案ください。」
「お仕事は、僕の普段座っているリクライニング・チェアの背にかけて、
頭を支えて首が曲がらないようにする枕の作成です。」
枕???
よく聞くと、首の筋肉が衰えて首が自分に対して右側に倒れるのを、
座っているときも、そして寝ているときも、まっすぐに頭を支える枕が必要だをいうことでした。
正直、それを聞いた時は、
「枕なんて作ったことないし、どうやって作るのか分からないです」って言いたくなったけれど、
相手は一日も早くそれを必要としていて、私ならば作れると本気で信じてくれていました。
その時が来たから、そんな役割が私にやってきたんだろうと、今は思います。
でも、そんな緊急を要するものを、すぐに完成させる時間的余裕もなかったので、
最初はネットで探した類似品から、本人が使えそうだと思うものを購入していただいて、
その使用感から必要な改良があれば、私がその枕を手直しして、
それとは別に同時進行で、専用枕の作成を始めました。
最初にお話いただいたのが3月のお彼岸の前。
材料の情報を集めて探して手に入れて、4月半ばから枕を作っては持って行って、
使ってみていただいて、時にはその場で調整して使っていただきました。
通っている間に、普段その人が過ごしている姿勢や目の高さに合うように、
テレビやパソコンの位置を考えたり、その時できることと、見つけた工夫をして。
5月の連休のころに納品した後は、毎日、頭の下に枕を入れる奥様の手でもって、
その枕をその人の本当の専用枕として、なじませるように使ってくださいました。
毎日、毎日、人のからだは同じ状態ではありません。
そんなからだに接して、彼を支えるのは奥様だけではなく、
あらゆる看護スタッフや医師が関わっていたのですが、
それから半年ほど経った時、その日の仕事を上がろうとする私に、
その方からメールがありました。
「今日はお忙しいですか?」
夜に配達指定の荷物を待つ為に家にいるということを伝えると、
看護師さんのマッサージで、枕の形が変わったのを
できれば、すぐに直しにに来てほしいということで、
荷物を自宅で受け取ってから、夜遅くに枕と首の位置を直すためだけに伺いました。
その時は、まだよくわかっていなかったこと。
首を正しい位置に直す人が、彼にとっては一刻を争う「必要とする」ひと。
彼のお願いに応えるために、電車とバスに乗って、
遅い時間に訪問して、首を支えられるように枕を整えた私は「必要とされた」ひと。
「愛される とは 必要とされる ことだと誰かが言った。 とするなら 必要とする人 は 愛する人 だ。」
これは、ある人の文章から引用したもので、
むろん、こんなことはただの言葉遊びなのですが、
単純に、この言葉の置き換えで言うと、
そのとき、
必要とする=愛している人は、ひとりで頭や枕を動かすことのできないその人で、
必要とされた=愛された人は、その人の首を支えて枕に乗せる為だけに出かけた私です。
ちょっと補足すると、
そのときの私の訪問は、彼にそれほどの親愛と友情があったからか?となると、少し違います。
ただ、彼のいる場所に行くことができる私が請われたというだけです。
義務とか責任とかとは別の要素である、「今は私しかいない」というだけです。
その場所に向かう車内のなかで、心配をしつつ「なんでこんなことに?」とばかり思ったけれど、
そんな傲慢は、訪問して実際のその人の姿を見た途端、あっという間になくなって、
ドアを開ける前までの、「なぜ私が?」という気持ちを持ったことを後悔しました。
そのときに、待っていたその人の気持ちを感じて、一瞬胸が詰まっていました。
帰りのバスの時間まで30分もなかった訪問にたいして、
別れ際のその人のまなざしをうけた感覚は、なんとなくはずかしかったです。
それから病気が進行し、彼が過ごす場所が椅子からベッドに変わったときと、
その枕が古くなったときに、2回ほど作り直して持っていきました。
お別れの場では、ずっとその人の頭を支えてきた枕を作ったことを
感謝の言葉と共に、奥様からいただきました。
作ってほしいと言われた時には、とても大変なことに思えたし、
実際に何度か試行錯誤して、やり直したし作り直しました。
それでも、そうやって出来上がったそれは使った人にとって、
いつもいつも最善のものだったのか?というと分りません。
ただ、それが終わってみると、全ての私の仕事量はとても小さかったことに思います。
でも、そのこととは別に、
自分が何かをだれかにあたえて、それがとても喜ばれたときの「うれしさ」は
自分が何かをもらった時の「うれしさ」よりも、より深く刻まれています。
単純に、きもちのやり取りを、受動と能動に分けるものでもないけれど、
からだを長い時間委ねる枕という、作ったことのないものを作るという
不安や責任から逃げたくなる弱さ、時間の少なさも全部知っていたうえで、
私の手を「必要として」くれた、彼の信頼に感謝をささげます。
このお仕事をしたことは私にとって、最大の宝物の一つです。

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